百々俊二氏 展覧会「A LIFE 1968-2017」
東川賞受賞作家 展覧会のお知らせ。
Gallery 916にて、百々俊二氏の展覧会が開催されます。
A LIFE 1968-2017

人の匂いのする川——百々俊二の写真世界
飯沢耕太郎(写真評論家)
百々俊二の50年以上にわたる写真家としての軌跡をあらためて辿り直しているうちに、不意に「川」という文字が脳裏に浮かんだ。山の奥に沁み出した細流が、やがてさまざまな水を集め、枝分かれしつつ大河となって平野を下る。百々の生まれ故郷の大阪でいえば、福井県境を源流として琵琶湖に流れ込み、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に注ぐ淀川水系を想像していただければよいだろう。百々の堂々たるスケール感を備えた写真の世界は、まさに流路延長約170km、流域面積約8,240㎢という、この一級河川になぞらえることができそうだ。
その百々の写真の源流となる水脈が形成されていくのは、1967年、九州産業大学芸術学部写真学科に一期生として入学してからのことだ。2年生になると、入学してすぐ父親に買ってもらったニコンFにトライXを入れ、原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争に沸き立つ佐世保に向かう。以後、69年1月、4月、11月の東大安田講堂機動隊突入前後の東京、同年7月の沖縄、さらに70年6月のロンドン旅行などの初期写真群は、2012年に刊行された写真集『遙かなる地平 1968-1977』(赤々舎、2012)におさめられている。
高温現像による荒れた粒子、ブレて傾くフレーミングなどは、当時若い写真家たちに大きな影響を与えつつあった、森山大道や中平卓馬の「アレ・ブレ・ボケ」の借用というよりも、百々の中から湧き上がってきていた表現欲求に応えようとする、止むに止まれぬ心情のあらわれといえる。とはいえ、佐世保でも沖縄でもロンドンでも、彼のカメラがひたと見据えているのが、地上にうごめく人間たちの、時に悲壮で滑稽でもある生の営みであるのは注目してよい。百々の写真の「川」は、あくまでも人の匂いを発して流れ続けているのだ。
学生時代には、のちに最初の写真集『新世界むかしも今も』(長征社、1986年)にまとめられる、大阪・新世界界隈の写真も撮り始められている。幼い頃から慣れ親しんだ大阪の光景は、百々の街歩きのリズムにシンクロし、被写体となる人たちと互いに呼び交すような、親密な距離感のスナップ写真として形をとった。視覚だけでなく、聴覚や嗅覚や触覚を総動員することで、「人間が裸でいる」街の空気感が、ヴィヴィッドに写しとられていくのである。
百々は1970年に九州産業大学を卒業し、東京写真専門学校の教員を経て、72年からは大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ専門学校・大阪)で教鞭をとるようになった。98年には学校長に就任し、2015年まで教育の現場の最前線に立ち続けた。多くの場合、教育者と写真家との二足の草鞋を履くことは、マイナスになることが多い。だが、百々に関してはむしろそれがよい方向に働いたのではないだろうか。忙しい実務の合間を縫って撮影を続けることで、集中力が高まるとともに、若い学生たちの創作のエネルギーを、フィードバックして自分の中に取り込むことができたからだ。
その彼が、腰を据えて写真家としての仕事に向き合うようになるのは、1990年代になってからだ。百々は1985年に、大阪から奈良県北葛城郡に移り住む。息子たちをのびのびした自然環境の中で育てたかったのと、自分自身のリハビリを兼ねてのことだった。90年から、奈良県、和歌山県、三重県の紀伊半島一帯を8×10インチ判の大判カメラで撮影し始める。96年にはモノクロームからカラーに切り替えて撮影を続けた。その成果は2冊の写真集にまとめられる。モノクロームの『楽土紀伊半島』(ブレーンセンター、1995年)とカラーの『千年楽土』(同、2000年)である。
それまで主に使っていた35ミリの小型カメラに代えて、「世界を点ではなく面で表現できる」大判カメラで撮影することで、被写体に向き合う姿勢が大きく変わった。撮影のたびにフィルムを交換しなければならないので、枚数が大幅に減り、被写体をじっくり見据えてシャッターを切るようになる。また、人間が中心的なテーマであることに違いはないが、写真に撮られることを意識させることで、張りつめた緊張感を共有することができるようになった。「人は死ぬ。だからこそ、このありふれた日々に、この場所でいきいきと営まれる暮らし、裸の人間、存在に十全と向き合うこと」そんな彼の思いに、しっかりと応える写真群が生み出されていくことになる。
写真家としての自信のあらわれは、2000年代になって刊行された『花母(はは)』(Gallery OUT of PLACE、2006年)と『菜園+桜』(VACUUM PRESS、2009年)の2冊の写真集にもよくあらわれている。『花母』では、映画監督の河瀨直美が、2004年に第一子を出産する様子を追っている。河瀨は百々が校長を務めていた大阪写真専門学校映画学科の出身であり、彼自身とも親しかった写真評論家、西井一夫の最後の日々を凝視したドキュメンタリー映画『追憶のダンス』(2002年)の監督でもあった。このシリーズでは6×6判のカメラが使われ、息を潜めてそっと寄り添うような眼差しがあらわれてくる。『菜園+桜』はポジとネガの両方が残せる4×5判のポラロイド55カメラで撮影されたシリーズで、小品ではあるが、百々の身の回りの自然に対する細やかな観察力が充分に発揮されている。多様な写真機材に触手を伸ばしているのも、旺盛な実験精神のあらわれといえるだろう。
百々の創作意欲は、2010年以降に出版された写真集『大阪』(青幻舎、2010年)と『日本海』(赤々舎、2014年)でもまったく衰えを見せていない。彼が生まれた城東区関目の「四軒長屋」にカメラを向けることから開始された『大阪』は、故郷の地を自らの記憶を辿り直すように撮影していったシリーズである。還暦を迎えた写真家は、体力の限界に挑むように、重たい8×10インチ判のカメラと器材を抱えて、大阪の区々を歩き回っている。かつては、獲物に飛びかかるように鋭く研ぎ澄まされていた眼差しが、そこにある存在を柔らかに受けとめ、包み込むように変容していることに注目すべきだろう。
『日本海』もやはり8×10インチ判のカメラにこだわったシリーズであり、撮影の範囲はさらに大きく広がっている。「日本地図をひっくり返して大陸側から見る」という視点で撮影された、山口県長門市から北海道稚内市までの日本海側の風景は、われわれの固定観念を大きく揺さぶる、新たな風土論の試みでもある。これまでの写真シリーズと比較すると、人の姿は画面の中で小さく扱われ、彼らが生きる土地の姿、その細部のありようが、驚くほどの克明さで浮かび上がってくる。東日本大震災以後の日本を、写真を通じて検証しようという渾身の営みといえるだろう。
2015年に入江泰吉記念奈良市写真美術館の館長に就任してからも、百々は果敢に新たな領域に挑戦しようとしている。2016〜17年に同美術館で発表された「春日山原始林」は、はじめてデジタルカメラを使って本格的に制作されたシリーズである。観光客で賑わう春日大社の裏手に広がる、霊気を発する深い森の奥深くまで踏み込んでいく撮影の試みは、これから先も続けられていくのだという。「バンコク」では、6×6カメラによるスナップ写真に回帰している。上流から下ってきた川の流れは、『大阪』と『日本海』の二大作で、いったん大海へと注ぎ込んだ。そしてその流れは、ふたたび源流へと遡っていこうとしているようにも見える。
百々俊二という「人の匂いのする川」は、さまざまなものを呑み込み、溶かし込みつつ、今もなお滔々と流れ続けているのだ。
アーティストステートメント
1968年1月17日佐世保、原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争から写真を撮り始めたと思っている。35ミリ一眼レフカメラでこのころは、めちゃくちゃ撮っている。技術的に未熟でも情熱と行動力でカバーしていた。見ること知ることの驚きがある。仰天し立ち尽くし躊躇(ちゅうちょ)している若き自分自身のさまがいとおしく思えた。いつもだれかにたのまれた訳でもなく、自分が見たい写真にしたいと思った事物を撮り続けた50年だった。
Gallery 916 上田義彦氏からこのような機会をいただき、すべての写真をもう一度見て、セレクトすることで、さまざまなセンチメンタルな感情を味わった。楽しかった。
「佐世保」「沖縄」「ロンドン」「新世界むかしも今も」「大阪の町」「バンコク」「花母」「a vegetable」8×10フイルムの仕事「楽土紀伊半島」「大阪」「日本海」新作デジタル「春日山原始林」を展示します。
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会期 : 7月7日金曜日 - 9月10日日曜日
開館時間 : 平日 11:00 - 20:00 / 土日・祝日 11:00 - 18:30
定休 : 月曜日(祝日を除く)
入場料 : 一般 800円、大学生・シニア(60歳以上) 500円
高校生 300円、中学生以下無料(Gallery916及び916small)