荒木経惟氏 展覧会「涅槃少女」
涅槃の語源であるサンスクリット語の「ニルヴァーナ」には、“吹き消す”という意味がある。
涅槃とは、煩悩の吹き消された状態=仏教の突極的目標とされる世界である。
生存のために切り離せない食欲や睡眠欲を脱した死後の世界にこそ、涅槃があるとして、釈迦の死を指す語でもある。
本能を触発しない、と、人工知能(AI)にエレジー(哀歌)を奏した、前回展の作品に、
荒木さんの写欲を一段と強く惹きつけた一体の古い日本人形がいた。
ひときわ、強烈な魅力を放っていた少女である。
彼女の存在をメタファーに、荒木さんの最新の気分を具現化したのが本展「涅槃少女」である。
どのような時をくぐり抜けてきたのか、愛されたのか軽んじられたのかーー
古い人形にはそれぞれが背負う過去が匂い立つ。
その表情は万化にうつろい、つかみどころがない。
幼児のようにあどけなく無垢のようでもあり、酸いも甘いもかみ分けた老成のようにも見える。
荒木さんの配置する花に囲まれた様々な姿態の人形少女たちは、
(花々もまた、若々しく輝いていたり、枯れてしなだれたり、複雑な妖相をかたちづくる)
当然の事ながら生命を宿しては生まれてきておらず、であるならば、生まれついての涅槃の住人なのだろうか。
あたかも脳神経とつながっているかのように、キラキラと眼力を瞬かせているというのに。
荒木さんが、亡妻・陽子さんに贈ったプロポーズの記念は、球体関節人形の作家であり写真家であった
ハンス・ベルメール(1902―75・ドイツ帝国カトヴィア<現在のポーランド領>生まれ)の写真集だった。
1987年、荒木さんは、フランス人写真家、ベルナール・フォコン(1950ー)の
マネキン人形を写した作品展のオープニングに現れ、学ラン姿のフォコンと宴席を共にした。
もしかしたら、荒木さんには、ずっと昔から、人形が孕むなにものかに感応するセンサーがあったのかもしれない。
そもそも写真家とは、シャッターを押し込む瞬間、その身体には(おそらく)心がない。
空っぽの器と化した肉体は、からくり人形のように、何か神妙なもの、もしくは、奇天烈な力によって采配される。
瞬間の天啓ともいうべきものを受容する才能が、写真家を写真家たらしめ、
シャッターチャンスを悟るのである。
この、ある種超自然的な作用を、荒木さんは、“本能”と呼ぶ。
煩悩にまみれた人間世界の住人が、カメラを介して、限りなく悟りの境地へと近づく。
人形の虚ろと人間の本能とが壮絶に渦巻く、虚と実の薄皮一枚で隔たれた世界に挟まれると、
感覚が浮遊して、混沌へと迷い込んでしまう。
しかし、そうやって目くらまされているうちに、どこからか湧き上がる、
みずみずしく真新しい気力のようなもので身中が徐々に満たされていくことが、いつも不思議でならない。