長島有里枝氏 展覧会「この隙に自然が」
ロゼットというのはタンポポのような越年草の冬の形態のことで、日高敏隆のエッセイ(2)でその存在を知って以来、気になってそのミニチュア化した形と地面にぺったり張り付いた平面的な姿を、冬の枯れた足元から意識的に見つけ出すようになっている。
光合成を効率よくおこなうため丸く放射状に、そして、冷たい風を避けるように地面に張り付いたその姿は、なるほどミニチュアの太陽にも見える。おひさまに持ってしまうある種の観念的、象徴的な印象が、足元の地面でリアリズムのミニチュアとなって具体化される。
タンポポという植物を想像するときはほぼ間違いなく、放射状に広がる葉っぱの中心から伸びた真っ直ぐな茎のてっぺんに黄色い花の姿が思い浮かぶが、そのタンポポにはロゼットという別の姿もある。もちろん目に見えない根っこの世界もある。それら全てがタンポポということになるが、どうしても大きな声(あのタンポポの姿)が先頭切って耳に入ってきてしまう。別の姿が発するメッセージもキャッチしたい。そして、本当はあのタンポポもメッセージを発している。
長島さんの植物の写真(3)はキャッチしている。それは植物写真としてではなく、人と向き合ったポートレートのようにしてある。そこには何という名前の植物か? というような、天造物を分類するような人間の視点は感じられない。植物自身のパーソナルが写し出されているように思える。決して擬人化ではなく、個別の植物がもつパーソナルを捉えているのだと思う。植物とこのように接した写真を知らなかった。
自然という大雑把な言葉が当然のようにやってきた。
目の前の2つくらいのことを気にしながら制作(4)を進めていくことは、マグマが冷えることが、決して玄武洞をつくるためではなかったことに似てこないだろうか?
人々がパンデミックでとりあえず家に篭っていた間、釣り人からの災難を免れた魚たちが川にいた。人間にとっての恐怖は魚にとっての楽園状態(5)を生み出していた。言い換えるとそんな状況と似てこないだろうか。これは滑稽な自然のミミックなのか、人とはそういう自然なのか。人という立場に魚という立場を加えてみると物事はよくわからなくなってしまう。
川の魚の楽園は束の間だった。感染の少ない山や川に人が集まり始めたことで、川には魚と人の緊張関係が復活した。
「月ノ座」(6)で目にした、かなもりさんの手による糸や布の破片を紡いだ作品は、本当に美しい郵便物の作品の隙間で、どのような形容も似合わない姿であった。人が作ったものというよりも、かなもりさんという生き物が作ったものとしか言えないそれに、似た事柄を探し出すと、河原のカヤネズミの巣が見つかった。カヤネズミの巣は釣り人の、魚にだけ向けられた眼には入ってこない。人はまだこのかなもりさんの事柄に言葉を見つけることが出来ていない。
伊藤 存
(1)マッチョにいい意味も悪い意味もありません。
(2)どの本に書かれていたのか忘れてしまった。気になった人は日高さんの本を全部読んでみて下さい。
(3)作品集『SWISS』
(4)伊藤存による刺繍による絵の制作のこと。
(5)もちろん鵜やオオサンショウウオなどの恐怖からは解放されていないので、楽園と呼ぶには語弊がある。
(6)白亜荘の一室にある編集者・村松美賀子さんのスペース。
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この隙に自然が
会期:1月8日(土)〜2月23日(水)
開廊時間:10:00-18:00
休館日:月曜日
協力:タカ・イシイギャラリー
MAHO KUBOTA GALLERY