歴代フォトふれ 吉田志穂さんが、第46回木村伊兵衛写真賞を受賞しました!!
おめでとうございます!!
以下リンクより
第46回「木村伊兵衛写真賞」(主催・朝日新聞社、朝日新聞出版)が吉田志穂氏とその作品に決定した。
コロナ禍に伴い、今回の同賞は2020年と21年に優れた作品を発表した新人写真家が対象となり、吉田氏の多岐に渡る活動が選出された。吉田氏には賞状と賞牌(しょうはい)、副賞100万円が贈られる。
受賞作品展は4月19日からニコンプラザ東京THE GALLERY(4月30日まで)、5月19日からニコンプラザ大阪THE GALLERY(6月1日まで)開催。
■インスタレーション作品が中心の写真家
吉田氏は1992年千葉県生まれ。東京工芸大学芸術学部写真学科を卒業し、現在は東京都を拠点に活動している。展示空間そのもので見せるインスタレーション作品が中心。インターネットで特定の場所の画像を収集。実際に画像を現地に持ち込み、自身による撮影画像と組み合わせるなど、暗室作業などの加工を重ねる制作を行なっている。 該当作品は、写真集『測量|山』(T&M Projects)、写真展「測量|山」/「砂の下の鯨」(NADiff Gallery)、写真展「余白の計画」TOTAS-Emerging 2020(トーキョーアーツアンドスペース本郷)、グループ展、あざみ野フォト・アニュアル「とどまってみえるもの」(横浜市民ギャラリーあざみ野)、グループ展「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol.18」(東京都写真美術館)。
木村伊兵衛写真賞は、故木村伊兵衛氏の業績を記念し1975年に創設。各年にすぐれた作品を発表した新人写真家を対象に表彰している。受賞者は、写真関係者からアンケートによって推薦された候補者の中から、選考会によって決定される。 第46回の同賞は、既に発表されたノミネート5人(顧剣亨氏、西野壮平氏、福島あつし氏、山元彩香氏、吉田志穂氏)の作品から選考委員4人(写真家・大西みつぐ氏、長島有里枝氏、澤田知子氏と小説家・平野啓一郎氏)による討議を重ねて確定した。以下に、選考委員のことばを全文掲載する。
■価値基準が激変する世界 ノミネートされた作品のスタイルはどれも、コロナの時代が始まる前に確立されたものだった。ある場所に赴くこと、人との関わり、身体性などをテーマの主軸とする作品が偶然にも集まっている。作家たちも厳しい生活を強いられるなか、新しいイメージを加えることで作品を未来につなげようと、真剣に制作を続けてきたことが作品から伝わってきた。 しかし、まさにその努力によって、“ニューノーマル”時代における彼らの視線のゆくえが、曖昧になっているようにも思えた。
なぜならこの2年、世界中で巻き起こったあらゆる格差是正の運動や権利獲得の闘いを目の当たりにした鑑賞者=わたしたちは、(とても健全で、前向きな意味で)以前と同じように作品を見ることができなくなっている気がするし、むしろそうであるべきだろうとも思うからだ。したがって、選考会では価値基準が激変する世界にあってなおシリーズに発展性が感じられ、同時にいまを生きる人々の鬱屈を照らす光になりうる作品かどうかを意識した。 「測量|山」をはじめとする吉田志穂氏の作品は、少し前なら気にもしなかったことに目がいき、違和感を覚えるという、コロナの時代にありがちな経験をわたしに押しつけてこなかった。インターネットから拾った山の写真と実際の山を共に撮影し、そのイメージをさらにプリントして展示し、その様子もまた撮影して写真集にする。そのスタイルのせいか、写真集『測量|山』を眺める行為は単なる「鑑賞」ではなく、自ら作品の一部として世界とつながる、なにか別の経験であるように思えた。 イメージをただ眺め、享受するという役割に鑑賞者を固定しないことは、自由な外出や人との関わりを禁じられた人々に主体としての自分を思い出させたり、参加によって生まれる帰属意識を持たせたりすることを可能にする。だからこそわたしは、人のいない景色を眺めているにもかかわらず、そこに血の通う肉体を感じたのかもしれない。(写真家・長島有里枝氏)
■行かなければ撮れないもの
コロナによる自宅待機と、メタバースに象徴されるネット空間の更なる発展が、相互に作用し合って、フィジカルな世界に「写真を撮りに出かける」という当然の行為の意味を問い直させた2年間ではなかったか。その問題意識が、様々に交錯する選考となった。 山元彩香氏の作品は、独自の美意識による完成度の高い世界だが、被写体が置かれている文化的コンテクストを読み取ろうとする鑑賞者が、躓いてしまうところがある。何故その意匠が必要なのか、何故そのポーズ、表情なのかという理由に、被写体との相互理解と生活の必然が備われば、説得力を増すのではないか。
福島あつし氏は、独居老人たちの生の現実を、“他人”と“知り合い”との中間的な視点から観察しており、一つの時代の証言たり得ている。が、作家性が強く問われる選考の場では、今後の活動を見たいという声が強かった。 顧剣亨氏の「Cityscape」は、テクスチャーが新鮮だったが、「身体性」の喪失という生々しい実感が求められる主題に対して、高層建築からの俯瞰図は茫漠としており、デジタル処理はその意味を汲み取りにくく、やや散漫な印象もあった。主題と方法との関係について、もう一歩踏み込んだ思索が必要だろう。 西野壮平氏の作品は、視覚的な面白さが魅力だが、ステートメントで説明されている土地の特質を理解するために、この断片の集積の網羅的提示という手法が本当に有効なのか、疑問だった。 吉田志穂氏の作品は、恒常的なイメージの過剰供給社会に生きている現実を、一旦、踏まえた上で、では何を撮るのかという問いと、その答えとしての写真の見応えが均衡しており、作家の時間的・空間的な経験が、鑑賞者に追跡されるドラマも効果的だった。山や鯨といった被写体は、ネット上に散乱する写真を凌駕して環境と結び合った存在感を示している。都写美の展示には疑問もあったが、今後の活躍が期待され、受賞を祝福したい。(小説家・平野啓一郎氏)
■力強く美しいポートフォリオ
写真というもの自体が時代とともに大きく変化している時だからこそ生まれてくる独自の視点、明確なテーマとコンセプトの有無が評価を分けたように感じました。 吉田志穂氏の作品の切り口自体は個人的な日常の小さなきっかけの中から生まれてきていますが、彼女はデジタルデータを形ある“モノ”として捉えていて、データと“モノ”の間でそれらを何度も入れ替えながら頭の中にある感覚的思考をイメージに落とし込んでいくのがうまく、そういったプロセスから出来上がった作品は現在の世界がいかに不確実性で満ちているかを示しているかのようです。
インターネットが今のように使えるようになるまでは写真家が撮影のために旅に出たり移動したりすることが当然のことでしたが、インターネット上で見つけた場所に実際に行って撮影するという吉田氏の行為は、まるでSNSで見つけたいわゆる“映える”写真が撮れる場所にわざわざ赴いて、他者が撮っているものと同じような“映える”写真を撮るという今どきな行為にもどこか重なって見えます。 そしてコロナ禍で撮影のための移動ができず生まれた作品があるというのも、直接的な表現をせずとも時代を表しているといえるでしょう。昨今インターネットを介した作品に斬新さや新鮮さは感じられなくなりましたが、デジタルデータの扱い方と作品へ落とし込むプロセスにオリジナリティーを感じます。惜しくも受賞には至りませんでしたが、顧剣亨氏にもその点では共通するところがあり、彼の写真的行為を私は評価しています。 内容が的確に編集されていて、全体を通して統一されたデザイン、細部まで意識が行き渡っているクオリティーの高いポートフォリオ。そんなポートフォリオに出合うと、この作家の作品ならきっとクオリティーも高いはずだと想像します。また写真集では見えないことが見えてくることもあります。選考会で目にした吉田氏の作品は、力強く美しいポートフォリオが印象的でした。(写真家・澤田知子氏)
■風景としての無作為性と非叙情性
2年ぶりの木村伊兵衛写真賞。これまで時折私などに届く「木村伊兵衛写真賞はアート方向に傾いている」といった声に、私なりの声で返さないといけないという妙な使命感も感じ、初の「選考会」そのものに緊張した。 推挙された多くの作品は見ごたえあるもので、写真表現の厚みとして極まっていたのが印象的だった。最終候補作となった5作品はこのコロナ禍という険しいフィルターを通すと別の見え方が指し示されているのは異論もなく、4作はすでに以前から拝見していたが、それぞれしっかり一つの段落を記している。完成度の高さとキャリアでは西野壮平氏の仕事は群を抜いている。木村伊兵衛写真賞の「新人」をいかに捉えるか論議があったことは記しておきたい。
「新人」としての吉田志穂氏の作品は、「あざみ野」や「都写美」などでインスタレーションとして空間の中で感じ、体験する出来事として味わってきた。正直にいえば、その全体像をなかなかつかめぬまま展示会場の暗がりで、一人のおじさんとして腕を組んで戸惑っていたことが悔やまれる。 しかし作品からは「一途な凄み」が感じられた。ネット上で集積された途方もない画像の山そのものが風景としての無作為性と非叙情性を表している。実地への「探査」を加えればそれらは19世紀の旅行写真家たちが抱えた「遠い異邦への夢」の新たな展開にも思え、無限遠の枠組みといった大きなスケール感を伴いイメージの領域に迫ってくる。今後は「山と鯨」にとどまらず、さらに関心を深めた事象から、文化や歴史といった世界像あるいは人間の記憶の深淵にまでつなげてほしい。「まだ見ぬそこ」に、私たちはみんな向かっているのだから。 最後になってしまったが、個人的には「人間のありようを探る」という写真メディアの大切な一点を素朴に伝えている、福島あつし氏の「ぼくは独り暮らしの老人の家に弁当を運ぶ」を深く心に刻んでおきたい。同じように人や風景を時間をかけてコツコツと素朴に撮り続けている東京や関西、地方の自主ギャラリーなどで活動しているたくさんの若い写真家たちに、その地点からまだ頑張れるはずだと知らせたい。 そして私たち選考させていただく側も、都市部の美術館や現代美術ギャラリーの枠に収まることなく、場を重ね、広く「写真」と「今」を見つめ続けていかねばと思う。(写真家・大西みつぐ氏)