長島有里枝氏 展覧会「ケアの学校」

本プロジェクトの会期中に、50歳を迎えます。デビュー以来30年、社会に対する個人的な思いや、自分にとって切実な問題を起点とした作品を制作してきました。途中でフェミニズムに出会い、そうした行動がThe personal is political(個人的なことは政治的なこと)という実践になりうると知りました。
10代の頃、自分にはなんの価値もないと感じていました。わたしのしんどさや怒りなんて取るに足りないもの。誰かに話して聞かせたり、声に出したりすることは迷惑だと決めつけ、自分の殻に閉じ篭りました。思い詰め、心と身体のバランスを崩したとき、たまたま美大生だったのは運が良かった。表現することを学ぶ過程で、それまで押し殺し、無かったことにしていた感情を解放しない限り、この先を生き延びることは難しいと気づくことができ、アートを通じて方法を探り、実践することができたからです。
子供の頃はとてもゆっくりだった時間の経過がいま、ものすごい速さに感じられます。世界も同じく、ものすごい速さで変化し続けているように見える——昨日まで正しかったことが今日は間違いで、さっき習得した技術もすでに廃れている、という具合に。そんな「いま」を、若いころと変わらぬおぼつかなさで、更年期を迎えた中年としてわたしは生きています。フェミニズムを勉強して強くなったり、生き易くなったりすることはなく、「先生」と呼ばれても人より特別なにかに秀でているわけでも、確固たる自信があるわけでもありません。
そんなわたしが、ホームタウンから遠く離れた名古屋でできることはなんでしょうか。新型コロナウイルスの世界的流行の渦中にあって、ある人々は手を繋いで解決に向かうことよりも戦争で人のものを奪ったり、嘘を流布して差別や対立を深刻化させたり、経済を優先させて地球環境や命を蔑ろにしたりすることを選び続けています。生身の人と触れ合う機会は減っているのに、大きな物語はiPhoneやPCの小さな画面を介して、わたしたちの生活に大量に流れ込んできます。でも、そうじゃない人が、そうじゃない物語をどこかで生きてもいるのです。
2020年に姉と慕っていた人、2021年には娘と思っていた犬のパンクを亡くしました。生きているものはいつか死ぬ、という当たり前のことを受け止めるのが、こんなに辛いなんて。新型コロナウイルスだけが、人の命を奪うわけではありません。別離を経て感じたことは、いまだにこれといった言葉にできずにいます。2022年2月、パンちゃんの写真を持って美容室に行き、髪をパンちゃんの体毛と同じ色にしました。
すごく大切なものを失うと、自分の望みや生きる意味がもともとはとてもシンプルだったことに思い至ります。わたしの場合はずっと、ただ楽しく生きたいだけでした。好きな場所で、好きなとき、好きなことができればよかったのです。幸せな気持ちで眠りに就き、新しい朝を迎える。最後の日までそうやって、自分も、自分を大切にしてくれる人や世界も大好きだと思いながら生きたい。そんな小さな望みを叶えることが、なぜこうも難しく感じられるのか。考えると悲しくなる。だからなんとかしたくて自分はアーチストになった、そんなことも思い出します。
暗室作業、編みもの、お絵描き、子供の世話、読書会、お菓子作り、ダンスや歌の練習。ずっとずっと大好きだったことをしながら、その場に居合わせた人と「ケア」について考えてみたい。ケアとは誰かを気にかけること。誰かとはなにより自分自身のこと。わからないことはわからないままでいいし、感情や身体のコンディションが整わないなら休んでもいい。相手との距離を縮めることだけを目指すのではなく、遠いまま放っておくことも大切な気がする。なにかに没頭する時間が、自分を労わる。没頭するわたしの隣に没頭するあなたがいる。他愛もないことや、真面目なことをお喋りしながら過ごす時間はきっと、未来の世界そのものを「制作」する力を持つはずです。
長島有里枝
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2023年1月14日(土)–3月18日(土)
11:00–19:00(入場は閉館30分前まで)
日曜・月曜・祝日 *2月11日(土・祝)は開館
〒455-0037 名古屋市港区名港1-19-23