長倉洋海氏 映画「鉛筆と銃ー長倉洋海の眸(め)」

鷹の眼で世界を見つめ 愛をこめて人間を写してきた。
運命的な出会いにも恵まれた。
文明の十字路アフガニスタンでソ連と戦ったマスードと仲間たち。
その死をのりこえ今も続ける山の学校の記録。
歴史は、流れつづける大河である。長倉はその岸辺に立ち、森羅万象に眸をそむけることなくレンズを向けた。
人類の業を見たのか、希望を見つけたのか?
「もう少し早く生まれていたらベトナム戦争に飛びこんで決定的瞬間を撮ることも出来たかもしれないけど、遅れてきた僕は、自分しか撮れない写真を探した。それが今につながっている」
「自分の目の前の人間の心に入っていくことを核にして写真を撮っていくというのが僕のスタイルです。先輩からは、もっと茫洋とした人間、人はどこからきてどこへ行くのかを考えるような大きな人間になれと言われました。その時はなにくそと思ったが、今思うと深い意味を持っていたんだと気づきます」
監督・撮影 河邑厚徳
製作・著作 アフガニスタン山の学校支援の会
ルミエール・プラス
配給宣伝 アルミード
長倉の一人称で切れ良く語り進めてゆくハードボイルド作品
半世紀にわたり地球規模で撮り続けた写真家の軌跡を叙事詩的に構成
企画の柱①
写真家に必要なのは対象を射抜く眼。長倉は時代を目撃するスタートラインに立った。
〇写真家 長倉洋海の誕生
1952年釧路の雑貨屋に生まれる。小学三年の時に親が買った地球儀に世界への夢を育て、大学では探検部に属した。ベトナム戦争を写した報道写真(ピュリッツアー賞作品など)に憧れて報道カメラマンを目指す。「目の前で現代史が動きその一ページがめくられていく。自分自身がその現場に立ち感動したい」と通信社に勤めた。
〇挫折とそれを乗り越える野心と負けず魂
しかしベトナム戦争は過去のもので思うような仕事は与えられなかった。「歴史を激的に動かすような一枚」を撮りたいと三年で辞職しフリーとなる。世界では紛争が続き、各地で人々が傷ついている。約一年間、決定的瞬間を求めてアフリカ(ローデシア・南アフリカ)中東(レバノン、アフガニスタン)アジア(タイ・カンボジア・ビルマ国境地帯・フィリピン)などで孤独な一人旅を続ける。しかし期待した写真が撮れず冬の寒風が吹く東京へ帰った。「紛争地域に立っても戦闘はざらになく、それを撮ることは難しい」。フリーになる前に通信社の先輩、岡村昭彦から聞いた「もっと茫洋とした人間、人はどこからきてどこへ行くかを考えるような大きな人間になれ」という言葉をかみしめる。
企画の柱②
誰も写さないものを?長倉洋海の手法が少しづつ生まれる。
〇天使と出会う
どの現場を選ぶかは写真家のセンスと運である。長倉は日本人が誰も取材していない中南米エルサルバドルに向かう。戦闘場面を撮るだけが戦争写真ではない、そこに生きている人間を通して戦争の真実や残酷さが描けるはずだ。難民キャンプで泣きじゃくる三歳の少女に出会った。「彼女は光が差さない路地の奥で真っ白な服を着ていた。背中で結んだ白布が天使の羽のように見えた」 出来事を取材するニュース写真ではなく、現場に何年も通い一人の人間を見続けるという長倉のカメラアイがここから生まれた。長倉はヘスースが子どもに産み、念願の結婚式をあげるまで記録した。自分の関心と思いをカメラに乗せる長倉洋海の世界が始まった。
〇マスードとの運命的な出会い
アフガニスタンでは侵攻したソ連軍に抵抗する戦いが続いていた。欧米のメディアは一人の若き司令官に注目していた。長倉は自分と同世代の若者が部族間、世代間の対立を超えて勝利し続けていることに惹かれた。1983年、5000メートルのヒンズークシュ山脈をこえマスードの懐に飛びこみ受け入れられた。最初100日間をイスラム戦士(ムジャヒディン)と共に行動し、二人は運命的な信頼関係をつくりあげていく。一人の人間としてのマスードに惹かれていき、彼の全てを写した。「ファインダーを通すと、指導者マスードの孤独がかいま見えた。マスードは類いまれなる戦略家だったが周辺国の介入や内部の対立が彼の思いをはばんだ。信仰だけが彼の拠りどころだった」 ソ連はアフガニスタンから撤退し、ようやく平和な時代が来るが長続きしなかった。各派の対立が深まり戦闘が続き、やがてタリバンが台頭。2001年9月9日マスードはアメリカ同時テロの2日前にイスラム過激派により暗殺される。長倉にとり悪夢のような出来事だった。
企画の柱③
失意の中から立ち上がった長倉の不屈の魂を見る
〇マスードの死を超えて山の学校を支援し、新しい希望を見つけた
長倉の心にマスードの言葉が生きている。「彼は逝ったけど僕の中から消えてない。亡くなっても終わりじゃない、彼は決して希望を捨てることはなかったから、まわりの人が望みを託して一緒にやってきた。僕は学校を通して未来を切り拓く手伝いが出来る。子供を見続け、同時にアフガニスタンを見続けていく事、それが僕のマスードとの関りで生まれた新しい僕自身です」マスードの意思に応えNGOを立ち上げて、長倉とアフガニスタンの第二章が始まった。マスードとともに戦ったイスラム戦士が銃を置いて教壇に立ち、小さな男女共学の学校が生まれた。
〇豊かな天然資源や、大きな産業もなく、戦禍に苦しむ国に生きる子供の瞳の輝きを世界に伝える。
教室で使う机やイスをプレゼントした。一本の鉛筆、一冊のノートに喜び笑顔を見せる生徒たち。経済の不平等と同じように情報の不均衡も世界を覆っている。私たちは欧米中心のニュースしか知らされていない。そこで見えないものは存在しないものとなる。長倉が辺境の学校に20年通い記録してきた子供たちの成長の物語がなぜ私たちの心を打つのだろうか。私たちが失ってしまった何かがそこにある。無垢な子供の笑顔は美しく、愛おしい。マスードと過ごした17年を超え学校の記録は長倉のライフワークとなった。
企画の柱④
長倉は「希望を失うことなく未来へ」と会報に書いた。終わりがない物語に立ち向かう
最初に出会った生徒たちは成長して社会に出た。卒業生たちは医療従事者、教師、電気や水道のエンジニアなどとなった。しかし、アメリカ軍が撤退し再びタリバンが権力を掌握した。タリバンの弾圧を逃れて子どもたちと家族はカブールへ。一部の住民たちが戻ったが状況は安全とはいえない。「ウクライナ侵攻、イラン反政府運動など世界情勢は混とんとしているが、状況が好転することを信じて、ブレることなく教育支援と地域復興支援に取り組みます」。支援の会は支援活動を続ける決意をした。長倉の物語はまだまだ続く。「絶望してはいない。心はふつふつと燃え滾っている」
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2023年9月12日(火)〜24日(日)
東京都写真美術館


