松江泰治氏 展覧会「美しさ、あいまいさ、時と場合に依る」

それを決めるのは私ではないが、少なくとも世界はそれを強く希望している。
1968年、川端康成はノーベル文学賞受賞に際し、「美しい日本の私 (Japan, the Beautiful, and Myself)」という講演を行いました。その26年後、川端に次いで日本人で二人目となる同賞受賞を果たした大江健三郎は、川端のモチーフを引き継ぎ、その講演の題を「あいまいな日本の私 (Japan, the Ambiguous, and Myself)」とします。
本展覧会The Beautiful, the Ambiguous, and Itselfは、二人の講演タイトルを重ねつつ、そこから「日本 Japan」と「私 Myself」を取り除けています。日本性と私性をめぐる言葉の圏域から離れてみること。日本人による日本特殊論はいつもどこかナイーヴな結論に陥りがちです。アイデンティティ・ポリティクスの隘路を踏み越える方向性も考えたい。
ところで「美しい日本の私」と「あいまいな日本の私」はいずれも新書として刊行されており、それぞれが優れた日本論として受容されています。しかし、両者の間にはある種の対立関係が見て取れます。図式化してしまうと川端の日本は、余白や侘び寂び、主客関係が失効した自然観など、私たちに馴染みのある日本論の典型ように読めます。一方、大江の日本論では、日本は近代によって引き裂かれており、地政学的な様々な矛盾を引き受けざるをえない分裂した主体です。
いささか牽強付会かもしれませんが、川端の日本と大江の日本の対比を、そのまま日本の古美術と近現代美術の対比にパラフレーズすることが可能かもしれません。川端や大江の意図したことではありませんが、二人の言説は、それぞれの美術カテゴリーを成立させる力学に近似している。さらに言えば、二人の日本論は価値付けの根拠にもなり得ています。無常感や侘び寂びによる価値の体系化と、近代西洋受容の矛盾の有意味化。美的な日本と多義的な日本。
本展覧会は、そういった「日本」の「私」から遠く離れたところから、芸術のあり方をラディカルに問うものです。作品それ自体の出自を日本の側にも作者の側にも置かず、それが作品でありえているという現象自体に焦点を当てること。教条的な情報とも、前提的な価値の確認とも違う、その時、その場における、感性的な経験の系を重視すること。美しさや曖昧さは、作者や時代や場所に還元されるものではないし、一部の人間にだけわかるものでもない。流行り廃りとも高尚な理論とも市場価値とも、おそらくあなたの感受性とも無縁です。人間ではなく、物の自律性(itself)によって、私たちの平等も自由も保障されている。畢竟、美術とはずっとそのようなものだったはずです。ただそれ自体として鳴り響くなにか。
時間を往還する鑑賞体験
kudan houseの館内にさまざまな作品が至る所に展示されています。油絵、陶器、写真、彫刻などジャンルが異なるだけでなく、それらは唐の時代から現代まで、つまり古美術ー近代美術ー現代美術の作品たちが一堂に会しています。それにより、情報ではなく、作品の質感や色味、肌理などが十分に堪能できるような体験の豊かさが開かれています。複数の時間が共振し、美しさや曖昧さが、時と場合によって出現するような「感性的な出来事」をご鑑賞ください。
私たちの美術の支持体としての震災
会場であるkudan houseは関東大震災への応答として、堅牢な鉄筋コンクリート造りの建築として誕生しました。対照的に、会場内に構成された展示壁は完成途上であったり、少し壊れてしまっているような印象を与えます。これらはバラック的なものとして意図的に提示されています。繰り返される震災とそこからの復興という反復が私たちの美術の背景にあるのではないでしょうか。本展は、そのような日本固有の性格を美術の条件として、それぞれの作品の支持体として内包する設計になっています。
音と気配を含んだ美術鑑賞
通常、美術鑑賞は視覚に限定されたものと考えられています。しかし実際、私たちは視覚以外の感覚を常に働かせており、それらが互いに影響しあっていることを知っています。もし、展覧会場に音や振動、気配の要素が加えられると、美術体験はどのようなものに変化するのでしょうか。本展では音響構成に音楽家の蓮沼執太を招き、会場に響く音も展覧会の重要な要素となっています。目と耳を、共に大きく開きながら展覧会をお楽しみください。
10:00 – 19:00(最終入場 18:30)
kudan house
(東京都千代田区九段北1-15-9)


